科学研究費基盤研究(S):近代アジアにおける水圏と社会経済 ― データベースと空間解析による新しい地域史の探求
水をめぐる人間社会と自然環境との交差から、地域の歴史を描き出そうとするとき、過去の自然に関する情報を収集し、分析可能なデータとして供すること自体が、重要な課題となる。そこでは、新しい資料を探索する、既存の史資料を別の角度から検討する、モデルやシミュレーションを応用してデータの間隙を推定・補完する、といった作業が不可欠である。ここに挙げたEssaysは、そうした研究プロジェクトの中核を成すデータや資料について紹介し、Interviewsは、それらを使った分析についても説明している。
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小林 篤史
図 サラワク王国と主要都市出所:筆者作成
1841年9月、サラワク王国はイギリス人ジェームス・ブルック(James Brooke)によってボルネオ北西の都市クチン(Kuching)を中心に建立された。それに先立ち、ブルックは、クチン近辺の現地民の反乱を鎮めた功績を認められ、ブルネイのスルタンからラジャ(現地の支配者)の称号を与えられており、これをもって現地民を統治下に置くサラワク王国を建立した。その後、ジェームスの甥のチャールズ・ブルック(Charles Brooke)が1868年から1917年、その息子、ヴァイナー・ブルック(Vyner Brooke)が1917年から1941年にかけて、ラジャとしてサラワク王国を統治した。1888年にはイギリス保護国となった。以下ではサラワク王国の史料の内、サラワク官報と年次貿易統計について解説する。
サラワク官報は、サラワク王国政府が1870年から1941年にかけて発行した月次、または隔月の刊行物である。この資料はサラワク博物館(Sarawak Museum)に所蔵されている。現在、資料はデジタル化が進められており、1907年以降の官報についてはE-Sarawak Gazetteにおいて、オンライン公開されている。筆者は1906年以前のサラワク官報については、デジタル化されたものを研究プロジェクト(学術振興会基盤研究S「東南アジア熱帯域におけるプランテーション型バイオマス社会の総合的研究」2010-2014年度 石川登代表)の研究者ネットワークの中で入手した。
サラワク官報は主に政府の広報や記事を掲載する刊行物であった。また、19世紀後半以降、サラワク王国の領土が拡大するとともに、地方の駐在員や役人による現地報告の掲載も増加していった(地図参照)。特に現地社会経済に関する記事は数多く、その内容は天候、自然災害、衛生問題、景況、裁判記録、事件など多岐にわたった。これら多様かつ膨大な記録は、これまでのサラワク史研究によって活用され、19世紀以来の現地社会、経済、政治の発展が詳細に分析されてきた。なお、1908年以降、サラワク政府官報(Sarawak Government Gazette)が別の刊行物として発行され始め、政府の広報を主に扱った。それまでサラワク官報に掲載されていた公式統計類は、徐々にサラワク政府官報に掲載されるようになった。
サラワク官報は上記の記述資料の他に、各種統計資料についても掲載した。最も長期にわたり掲載されたのが「貿易統計(Sarawak Trade Returns)」であり、1870年以降、毎年のサラワクにおける商品別の海上貿易(Foreign Trade)と沿岸交易(Coastal Trade)の統計データ(輸出入額と量)を得ることができる。貿易統計の表記は「サラワク(Sarawak)」であるが、実態は首都クチンの海上・沿岸交易のデータであったと推定される。この資料によって、1870年以降に、クチンがどのような商品を輸出入したのか、またサラワク王国内の沿岸諸港とどのような商品を交易したのか、という実態を数量的に把握することができる。また、サラワク官報には1884年7月以降、クチンの月次の商品別海上貿易と沿岸交易の統計が掲載された。近代東南アジアにおける月次の貿易統計は史料としてあまり残っておらず、サラワク官報のクチン月次貿易統計は利用価値の高い貴重なデータである。
サラワク官報は1876年以降、日次の気象データを掲載し始めた。その気象データはクチンで観測されたものであり、初期には1日の降雨量(Rainfall)、最高気温(Temperature at 12:30pmまたはMaximum)、最低気温(Temperature at 6:30amまたはMinimum)といった観測データが提示された。その後、気圧(Barometer)、乾球温度(Dry Bulb)、湿球温度(Wet Bulb)、日照時間(Sunshine in 24 hours)といった詳細な気象観測情報が追加されていった。さらに1890年代以降には、サラワク王国の地方駐在所における気象データの掲載も始まり、観測値は降雨量などに限られるものの、一地点に限らない広範囲の定点気象観測データが利用可能である。
サラワク王国政府は1920年以降に公式貿易統計を発行した(資料写真参照)。それは年次の貿易統計であり、フォーマットはサラワク官報の年次貿易統計を踏襲したものであった。すなわち、商品別の海上輸出入額と量、及び沿岸交易額と量のデータが掲載された。サラワク官報の貿易統計との違いは、首都クチンだけでなく、シブ(Sibu)、ミリ(Miri)、ビンツル(Bintulu)といった地方都市の貿易データも掲載したことであった。こうして1920年以降の貿易統計からは、クチンに限らずサラワク王国の広範囲をカバーする貿易の実態を数量的に把握することが可能となった。しかしながら、サラワク官報の貿易統計とも共通する問題として、地域別の貿易統計が掲載されていないため、サラワク王国がどこの国とどういった貿易を行っていたのかを捉えることができない。この課題は、当時のサラワクにとって最大の貿易相手であった、シンガポールの貿易統計を用いた推計で対処することは可能である。しかし、緻密な分析は精度の面で困難だと考えられる。
資料写真 サラワク年次貿易統計(1920年)筆者撮影