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科学研究費基盤研究(S):近代アジアにおける水圏と社会経済 ― データベースと空間解析による新しい地域史の探求

1980年代の「アジア貿易圏論」以来、アジア域内での商人ネットワークや貿易、沿岸都市に関する研究成果が蓄積されてきた。 しかし、自然環境や社会経済の多様性を相互に検討する枠組みを欠くことから、各地に関する実証研究を統合し、メタ・ナレティブとしての地域史を構築するには至っていない。 本研究では、以下の研究プロジェクトを軸として、自然環境とを社会経済活動を相互に参照しながら、アジア地域の長期変動とその内的ダイナミズムを明らかにしていく。

空間解析ユニット

空間解析ユニットは、アジア各地を研究対象とする歴史家が収集する資料やデータから、気候と水圏に関係する三つの問題群、①「自然環境・現象」、②「生産・生活」、③「移動・流通」について構築された空間情報データベースに、空間解析を応用することによって、19-20 世紀のアジア社会経済の動態を解明することを目指している。

空間解析とは、位置と結びついた事象の関連を分析する手法である。位置と結びついた情報とは、例えば国別の人口のように、国という位置を示す情報と、人口という数値情報が1セットになって保存されている情報である。このような位置とその位置に関する情報1セットのことを空間情報という。

空間情報からは、地図を作ることができる。ある国の位置にその人口に従う大きさで円を描き、これを世界中の国に対して行えば、国ごとの人口を円の大きさで示す地図ができる。このように空間情報から地図などを作成し、元々の数値や文字から図を作成することを、空間情報の可視化という。空間情報の持つ位置情報と数値・文字情報を相互に参照し分析する手法が、空間解析である。

空間解析ユニットは、歴史分析ユニットと協働し、以下の課題に取り組んでいく。

  1. 空間情報データベースの構築:主要な港湾都市とその後背地を取り上げ、上に挙げた三つの問題群に関連する量的・質的情報に経緯度備えた空間ID を付し、すべての情報が時系列上も、地点間でも、異なる問題間でも、相互に参照可能な空間情報データベースを構築する。
  2. 空間解析:特定の地点における、地形、地質、水文、植生などの自然現象と、施設立地、商業活動、生活行動、人口移動などの社会経済的現象との関係について、様々な仮説を立て、地理情報システム(GIS)による可視化情報の重ね合わせと比較や統計分析の手法を援用して、推計・検証を行う。例えば、①モンスーンのサイクル・年次での異常気象・長期気候変動といった自然環境の条件下での、②河川流域の水文環境や灌漑形態と人口・農業生産、港湾・河川開発に伴う産業集積と都市化、③気候と農作物価格の相関とそれらの地域間での関連性にみられる地域経済の結びつき、といった三つの問題群に関係するデータに空間解析を加え、各地での気候・水圏・社会経済の相関関係を明らかにする。
  3. 特に、従来の歴史研究では、データや分析手法の限界から、気候や環境の変化を定量的に把握し分析することは稀であった。空間ユニットと歴史データユニットが協働することによって、アジア各地における自然環境とその変化を推計・再現していくことは、本プロジェクトの重要な課題である(参照:河川氾濫解析)。

また、歴史家が収集する資料やデータの中から気象・水文に関する観測記録を抽出することで、数値気候モデルにより再現される過去の気候を検証・補正するなど、歴史データの自然科学や地球環境科学への貢献も目指していく。

河川氾濫解析-1931年長江大氾濫をケースとして

モンスーンという自然条件への対応が、社会経済活動の与件となってきたアジア各地では、気温や降雨に関する観測が長期にわたって行われ、その記録が残されている。これらの歴史データを用いて、気候・自然環境の推計・再現を行うことは、本プロジェクトの重要な目標の一つである。

この課題に応えるパイロット・スタディとして、1931年に長江流域を襲った未曽有の大氾濫を取り上げ、氾濫解析を進めている。氾濫解析は、降雨分布データ、標高や土地利用などの地形データ、河川断面データなどを入力データとして、河川流域内の降雨―流出―氾濫の過程を計算する技術である。ここで利用した標高データはUSGS(米国地質調査所)の提供するHydroSHEDSである。 降雨量のデータはNOAA(米国大気気象観測庁)による過去150年間の2度グリッドの降雨推計データにプラスして、当時中国各地の海関などで計測された気象観測データを用いている。

『气象月刊』第四巻第八期 (1931年8月) 57ページ

以下の図は、前述の標高データ及び降雨データ等を用いて、1931年に中国長江で発生した洪水のシミュレーションを試みたものである。背景の緑色から茶色、灰色で示したのは標高データ、青い部分は洪水が起きた部分である。青い色が濃い程、水深が深いことを示す。

長江に関しては、19世紀半ば以降、中国海関が、気温や水位の観測を定期的・継続的に行い、海関報告の中に記録を残している。以下に示す中国海関統計に含まれる10年報告では、上記シミュレーション日である9月1日は、水位が52フィートから下がりつつあったことが分かる。今後、シミュレーション結果と歴史資料との比較を積み重ねることで、その洪水範囲と水位についての精度をあげていく。

CHINA, THE MARITIME CUSTOMS. 1. – STATISTICAL SERIES: No. 6. DECENNIAL REPORTS, 1922-31. FIFTH ISSUE. Vol. I. NORTHERN AND YANGTZE PORTS, p. 571.

これまで土木工学・水工学分野で長年にわたり開発されてきた解析手法を、広域におよぶ長江流域の歴史分析に応用することで、自然災害のインパクトに新たな知見を提示していく。また、河川の氾濫という非常時を取り上げて構築したモデルは、平時における河川流域の分析にも展開させていくことが可能である。今後、このケース・スタディを起点として、より長期の長江流域の水循環や、アジアの他地域の洪水・旱魃といった問題へと、研究を進展させていくことが期待できる。

歴史分析ユニット:中国班

中国の領域の東側は海に面し、黄河や長江、珠江といった主要な河川とその支流は、域内を網羅している。こうした条件の下での、沿海部での海洋へのアクセスの重要性は、1980年代以来のアジア域内貿易圏論や、アジア海域史でも議論されている。また、農業社会にとっての治水と統治の問題や、河川と地域内外の流通との関係なども、大きな関心を集めてきた。これらの、海・河川に関係した生産・生活と流通・移動に関する研究を背景として、中国班では、空間解析ユニットと協働して、降雨や流水のインパクトを定量的に推計しながら、水との関わり方から見えてくる19世紀以降の中国社会経済の態様を解明していく。

そこでは、当時の中国に固有の幾つかの資料群を読み解き、データベースとして加工した上で、新たな視点から検討することが重要な課題となる。例えば、19世紀半ば以降、お雇い外国人が管轄した中国海関は、欧米に準じた関税業務を行い、その結果、精緻な貿易統計を編纂すると同時に、港湾整備や河川航行にも関与し、関係記録を残した。現在進めている、長江の氾濫解析は、海関によって定期的に記録された、流域の幾つかの地点での水位が重要な情報となっている。こうした解析の結果と、海関による開港場社会の医療報告(Medical Report)や、その他の組織や個人による調査・報告とを相互連関的に検討していく。

歴史分析ユニット:南アジア班

19世紀から20世紀半ばにかけての南アジアは、世界貿易拡大にともなう好調な一次産品輸出を主な動因とした経済成長の時代であったと同時に、未曾有の規模の飢饉・疫病の時代であった。1920年代になると経済は停滞し、飢饉・疫病の時代は収束する。経済成長と飢饉・疫病との関係はこれまでも議論されてきたが、両者に関連する農業生産、流通、地域間・地域内消費との連関、およびマクロの動向と地域別のミクロの実態との関係は、依然として解明されていないことも多い。そこで、本ユニットでは、「水のネクサス」という概念に基づいて、文書資料に基づいた実証研究と空間解析ユニットとの協働による定量的分析という双方向からのアプローチを通じて、対象時期の南アジア経済の動態の総体的解明を試みる。

モンスーンがもたらす雨は、地上で多様な形の水(農業用水、河川、海洋など)となり、農業生産、域内交易、外国貿易、消費を繋げ、それらの相互連関を生む。また、これらは静態的なものではなく、南アジア地域特有のモンスーンと地形との関係に強く影響を受けるため、地域的に多様であり、季節的にも変動する。本ユニットでは、このことを「水のネクサス」と呼び、上記の課題を検討する。その際、「水のネクサス」の分断(洪水や旱魃、ひいては飢饉・疫病)を修復するような在来の技術や制度の発展、19世紀における輸送手段の近代化や架橋や築堤に代表されるような「水のネクサス」の「近代的」コントロールといった点も広く議論の対象とする。

主体たる対象地域は、水文環境が対照的なベンガル地方とデカン高原とする。前者は熱帯モンスーン気候を含む湿潤な地域であり、後者は乾燥帯のステップ気候に属する。両地域はそれぞれ米、綿花という主要商品の産地であり、カルカッタ、ボンベイという港を通じて世界市場と密接に繋がっているという共通点もある。その意味でも格好の比較対象と考えられる。

歴史分析ユニット:東南アジア班

東南アジアは、チャオプラヤ川やメコン川を始めとするいくつかの大河流域のデルタを有する大陸部と、大小多数の島からなる島嶼部という、地形・水文を異にする地域により構成されている。また、19世紀から20世紀にかけて、タイを除く、多くの地域は、イギリス、フランス、オランダ、スペインなど、異なる欧米列強の統治下・影響下に置かれていた。このように、自然的・政治的条件を異にしながらも、農業を基軸とする東南アジア全域にとって、気温・降雨や河川の水位の情報は必要不可欠であり、政府を始めとして様々な組織が観測し記録を残している。東南アジア班では、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、シンガポールをフィールドとするメンバーが協働し、こうした各地域の気象・農業・貿易関連データの収集を進めながら、地域間の相違と共通性を踏まえつつ、地域間の繋がりと比較に焦点を当てて研究を進めている。

島嶼部については、たとえば、マレーシアのサラワクについては、Sarawak Gazetteが、気候のみならず、貿易や物価に関する数値を記録しており、相互関係の分析を行うことが可能である。サラワクでは近代的な貿易成長の中で、一次産品の輸出を基盤に世界経済に接続していった。その中で、海洋貿易、沿岸交易、そして河川内陸交易が連動する複雑な流通ネットワークが発達し、それは貿易の成長を加速させる役割を果たしながらも、気象条件によっては流通が滞るという脆弱性も有していた。むろん、一次産品の生産にも異常気象は何らかの影響を与えたであろう。こうした貿易・流通と気象条件との直接的・間接的な影響を量的(統計データ)及び質的(記述資料)に解明していくことを目指している。

さらに、インドネシアでも、植民地政庁が19世紀半ばからバタビアを始めとして、領域内各地で気象観測を進めた。 “Regen waarnemingen in Nedenlandsch-Indië”(蘭領東インドの降雨の観測)といった資料として発刊された気象記録を集めると同時に、気候条件とスラウェシ島ミナハサの人口、農業、貿易、疫病といったマイクロヒストリーとを相互連関的に分析する試みを進めている。

他方、大陸部のタイについては、Statistical Year Book of the Kingdom of Siam を基本資料として、気象データ(気温、雨量、河川の流量)、農業データ(米栽培、米輸出)、経済金融データ(地券、担保、田地税)の総合的な入力を進めつつ、相互連関に焦点を当てた分析を進めている。タイのパンニー博士は、バンコク近郊バンケーン地区の運河の開削と農地の変化に着目し、チャオプラヤ―デルタのダイナミックな発展を一次資料とヒアリングを通じて明らかにしようとしている。また、ベトナムについても、仏領期の基本統計資料であるAnnuaire statistique de l’Indochineにより、各都市の平均降水量、サイゴンの気温といった気象データのほか、貿易(輸出入)、農業(米生産、作物別耕作面積等)に関する包括的なデータが得られる。それらの入力を進め、当時トンキンと呼ばれていた北部、アンナンと呼ばれていた中部、コーチシナと呼ばれていた南部の異なる気候的特色を意識しながら、相互連関に焦点を当てた分析を行う予定である。特に19世紀から20世紀は南部のメコンデルタで開拓、運河開発が進められたことから、同地域の発展や水系の枠組みから見た評価には注意が払われるであろう。

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